【日本政治考察】
10月27日投開票の衆院選は、与党の敗北となった。数の論理からすると、野党がまとまれば政権交代もあり得たが、11月11日召集の特別国会で第二次石破茂内閣が発足する見通しだ。最初から「少数与党」という苦境にあえぐ内閣となる。表舞台に立ったのは、実質的な閣外協力ポジションについた国民民主党である。少数与党の過去の事例についても紹介したい。与野党ともに有力な新人議員も誕生している点も見逃せない(本文敬称略)。
国民民主のキーパーソン
霞が関官僚は目下、戦々恐々としている。これまで自民、公明の両党への根回しだけで法案を通すことができたが、今後は国民民主への説明が不可欠となってくるからだ。国民民主がノーといえば、成立しない法案が幾つも出てくる。官僚にとっても、手間暇がかかる事態である。第二次安倍政権発足以降、菅義偉、岸田文雄と3代にわたってつないできた12年近い自公盤石体制が瓦解した。日本政治は当面、不安定な時期に入る。
エース官僚たちは早速、国民民主とのチャンネルを探っている。内閣官房の課長級は「個人的にも、国民民主との縁がまったくない。これはなかなか大変だ・・・」と筆者にぼやいた。代表の玉木雄一郎、国対委員長の古川元久はいずれも財務省出身で、これまでも財務省とはパイプがあった。しかし、玉木も古川も野党暮らしが長い。国民民主の掲げる政策は財務省とは全く相入れない。
霞が関がさらに戸惑っているのは、幹事長の榛葉賀津也の存在だ。民主党政権時代に防衛副大臣を経験しているが、役所との接点が少なく、官僚と付き合うタイプではない。歯切れの良さ、明るい気質、独特のキャラクターでブレイク中であり、国民民主の番頭として力を持っている。融通無碍な財務省あたりは、榛葉に狙いを定めて近づくかもしれない。ガチンコ勝負に秀でた玉木との交渉はバレやすい。寝技もできる榛葉がキーパーソンとなる。
少数与党とは何か
過半数を確保している政党を「与党」と呼ぶ。ゆえに「政権与党」と
呼ぶが、日本政治では冒頭に触れたように「少数与党」という矛盾した言葉がある。内閣不信任決議案が常
時可決する状態にあるため、少数与党は当然ながら、政権維持が困難である。
1994年4月、細川内閣が倒れて羽田内閣が誕生した。社会党が羽田内閣発足直前に連立を離脱し、新生党などの与党が過半数を失った。同年6月、内閣不信任決議案が可決される見通しとなり、羽田内閣は総辞職に追い込まれた。羽田は戦後2番目に短い64日間の首相在任となった。
一定期間、政権を維持した例もある。1954年5月に発足した第5次吉田茂内閣は、1年半余り続いた。少数与党ながら、閣外協力で予算や重要法案を成立させていった。立憲民主、日本維新の会、国民民主の3野党がバラバラであるため、結果的に自公体制の継続が可能となっているのが現在だ。国民民主は決選投票で無効票となる「玉木雄一郎」と書く方針だ。得をするのは石破である。少数与党体制を最大限活用しようとする玉木の目論見を感じる。「手取りを増やす政策」ために閣外協力の立場で与党を動かすのは、政治の方法論としては正しいことは認めなければならない。
新たな逸材 落選した大物
今回の衆院選では、若くて有望な議員が誕生している。新人当選者は与野党含めて99人。当選者全体に占める新人の割合は21.3%だった。対照的に、大物の落選が目立った選挙ともいえる。北海道8区で自民党から出馬し、比例復活した向山淳は、1983年生まれ。ハーバード公共政策大学院を修了、三菱商事から政策シンクタンクに転じた経歴を持つ。デジタル時代を牽引する政策立案において、自他ともに認める即戦力だ。参院選での落選経験もある。
政界に必要な逸材が上がってきた
千葉4区で圧勝した立憲民主党の水沼秀幸は、1990年生まれ。立憲代表の野田佳彦の地盤の大半を継承した。水沼は早大時代、首相だった野田の事務所でインターンをしていた。師匠譲りの街頭活動には定評がある。損保大手に勤務していた経験を活かしてほしい。福岡11区で、元総務相の武田良太が落選した。2235票差で維新の新顔に敗北した。携帯電話の値下げ等、辣腕をふるい、自民党内では将来の首相候補といわれた。役所を動かすリーダーシップ、政策の実行力は群を抜いていた。東京にも事務所を構え、再起を期す。埼玉5区、現職の法相、牧原秀樹は比例でも復活できなかった。一貫して弱者への目線を持ち、共同親権等の難しい課題に取り組んできた。永田町随一の政策通であると断言したい。クリーンな政治を実践し、大臣就任でさらに存在感を増そうとしていただけに残念でならない。
(ジェリフェ・ニュース 編集長 山本雄史)